阿部博一がサッカーで戦力外通告!!
元プロサッカー選手の阿部博一さん(32)は、念願のプロ契約になった年、戦力外通告を受けました。
その後、アメリカの大学院に留学し日本で就職します。
私の就活は「戦力外通告」から始まった サッカー選手から三菱総研へ 現役時代から磨いた「自分の武器」
一握りの人しか舞台に上がれないプロスポーツの世界。セカンドキャリアを考え、再スタートを切った元選手は、どのような心構えがあったのでしょうか。元プロサッカー選手の阿部博一さん(32)は、念願のプロ契約になった年、戦力外通告を受けました。その後、アメリカの大学院に留学し日本で就職します。順調に次のステップに進めたのは、3年間で結果を出すと自分に課したこと、サッカー以外の世界も吸収しようとしていたことを心がけていたからでした。(小野ヒデコ)
【画像】「戦力外通告」されたサッカー選手「その後」の姿
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3年間で結果を出すことを目標に
<大学卒業後、クラブと契約。当初から「3年間で結果を出す」と心に決めていた>
小学校時代から、将来の夢はプロのサッカー選手になることでした。大学卒業後、当時九州リーグ(地域リーグ)に所属していた∨・ファーレン長崎(現・J1リーグ所属)に入団しました。
結果的に3年間ここに在籍するのですが、最初の2年はアマチュア契約。給料はもらっていましたが、生活費を補うために他に仕事をしていました。その中で「3年間で結果を出す」と最初から決めていました。
当時一番難しかったのがサッカーに集中できる環境を整えることでした。アマチュア契約の選手は、プロ契約を勝ち取るために必死な一方で、経済面でアルバイト中心の生活になっていく選手も多かったです。
そして、チーム在籍3年目の2010年に、24歳でチームとプロ契約を結ぶことが出来ました。
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サッカーに対する気持ちが切れた瞬間
<プロになった年のシーズンオフ、自ら引退を決意。理由は「気持ちが切れたから」>
2010年、24歳の時プロ選手としてJFL(3部リーグ)でプレーしていましたが、JリーガーになるためにはJ2、J1とステップアップが必須です。
当時、ホームスタジアムがないとJリーグに上がれないという条件があったのですが、V・ファーレンではその年もスタジアムができず、Jリーグに上がれないことが分かった瞬間、サッカーに対する気持ちが切れました。
選手を続けていく上で一番重要なのは、サッカーがうまくなりたい、上を目指したいという「気持ち」だと個人的には思います。
僕は25歳でサッカーに対する気持ちが切れ、選手としてサッカーに夢が持てなくなりました。
出典元:headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180208-00000001-withnews-bus_all
経済的に裕福な家庭であればこそだと思う。
食費、学費、居住費、光熱費、渡米費、卒業までの数年で大きなお金が必要で、自分の力で武器を手にしたとか何いってるのかわからない。
今日明日食べるものにも事欠き、生活の為に余裕がない貧困層には残念ながら選択肢はない。
運が良かっただけ